![]()
問題
次のテーマについて、あなたの考えを述べなさい。(800字程度)
『身の回りのちょっと変なこと』(代々木ゼミナール編『新小論文ノート2025』32頁
上記の本には、高校生が書いた答案が載っています。それは以下の通り。
「私の身の回りである変なこと、何だろうとしばらく考えて、いくつか『不思議なこと』を見つけて、ひとつ、『変なこと』を見つけた。何が変化とふと思ったとき、考えることそのものがヘンではないかと気付いた。
1年くらい前、純粋に人と接してみたいと思ったことがあった。純粋に人と接して、純粋に涙を流せたらどんなにステキだろうと思ったまではよかったが、その後、『純粋ってどういうものなんだろう?』と考えてしまった。その途端、ステキに思えていた『純粋』も、謎だらけの漢字2文字に変わってしまったのだ。
人はいつも、誰でも、何かしら考えていると思う。私も、いつも何か考えながらすごしている。もっとも、私の場合は少々かんがえすぎなところがあるが。考えなければ何も生まれないと人は言う。考えていたらキリがないから考えないとも言う。『考える』と『考えない』の違いは、その対称の度合いや角度が違うだけだと私は思う。本当に何も考えないですごしているとしたら、それは何も感じないで生きている、というよりもただそこにいるだけのものになっているんだろう。泣いたことも、笑顔の嬉しさも知らない物体になってしまうのだろう。よくよく考えあぐねてみれば、考えることは私が存在して、『生きて』いくために必要不可欠なんだろうと気付く。
でも、考えることは、やっぱり変なことなのだ。私にとっては、考えなければ素直に受け止めて流せることでも、『これは・・・』と考えたらその瞬間に、物事は謎めいた媒体になって私の前に立ちはだかる。物事はすべて私の考えひとつで、いろいろな色と形に変わっていく。幸せも、人とのつきあいも、勉強も、自分自身も、考えていくことによって全く違った定義になってしまう。考え方によれば、生きていることだってヘンなことになるかもしれない。考えることは、いちばん身近でいちばん大きな『変なこと』なのである。」(同書32-33頁)
この本の執筆者による添削後の答案例
「 私の身の回りにある変なものとはなんだろうか。そう考えていて、ふと『考える』ことそのものが変なことではないかということに気付いた。人間はふだんからさまざまなことを考えているが、『考える』ことそのものについては意外に考えていない。ここでは、私なりに『考えること』の意味を考えてみたい。
一年ほど前、純粋に生きてみたいと思ったことがあった。純粋に人と接し、純粋に人を愛し、純粋に涙を流せたら、どれほどすばらしいだろうと思った。そして、『純粋とはそもそもなんだろう』と考えた。その瞬間に、今まであこがれの対象であった『純粋』は、謎だらけの不思議なことばに変わってしまった。考えることは、目の前の物事を謎めいたものに変えてしまう不思議な力をもっているのだ。
人はいつも、誰でも、なにかを考えている。私もそうだ。考えなければなにも生まれないとも思う。しかし一方で、考えていたらきりがないと人はいう。だが、考えることをやめることは感じることをやめることであり、ひいては人間らしい生き方そのものを放棄することにつながるのではないだろうか。考えることによって、人は自分の心の中で対話を行い、自分という人間を形作る。考えることは、私が私として存在し、『生きて』いくために必要不可欠な営みなのだ。
考えることによって人は立ち止まる。考えることはスムーズに生きることの妨げになる場合もある。それは人を不自然に、ぎこちなくさせるからだ。しかし、考えることは、目の前の物事を今までとは違った角度から見つめることであり、新しい世界との出会いを意味するのだ。物事をさまざまな角度からとらえ、今まで惰性で生きていた自分自身さえも新しく生まれ変わらせる力をもったもの、それが考えるということなのだ。そう考えると、私にとって『考える』ことは、やはり、一番身近で一番大きな『変なこと』なのである。(同書35頁)
【解説】
生徒による小論文はかなり出来が悪いです。これは不合格答案の見本です。添削は微調整なので、低レベルの論文を添削しても、低レベルのままです。生徒による小論文のどこが問題なのでしょう。それは、「変なこと」という日常語をそのまま使って論文を書いている点です。日常語は多様な使い方をするので、必然的にあいまいです。そのような語彙を使うと、論理的な思考になりません。上記の小論文も、その内容が不明確です。言いたいことは、考えることそのものが「変なこと」なのだ、というのですが、「変なこと」とはどういうことかが明らかになっていないので、全体的に意味不明になっています。添削例はそれを補って、考えることは新しい世界との出会いを意味するとしています。しかしどうしてそれが「変」なのでしょう。そこが解明されていません。
そこで、「変」という曖昧な日常語を、概念に置き換えてみましょう。社会学で言えば、「逸脱」deviation が適当でしょう。理論的な概念の特質は、組み合わせて思考を構成する概念がすぐに見つかることです。逸脱の対概念は、同調
conformityです。ここから議論を始めます。まず、生徒による小論文は、考えることは変なことだ、と述べています。これは明らかに誤りです。これだと、すべての思考が変だということになってしまいます。学校は変な人を養成するためにあるのでしょうか。正確には、思考は変な時がある、とするべきです。これを概念で言えば、思考には同調的な場合と逸脱的な場合がある、となります。普通の暮らしの中で、私達は社会の規則に同調して生きています。学校で教わった知識をさほど疑うことなく、その範囲で生活しています。それが同調です。社会学ではこれを社会化と呼んでいます。多くの人が社会化されて同じ規則にしたがって、「普通に」考えているので、社会秩序が成り立っているのです。
しかし、時に社会的な規範から逸脱する思考をすることがあります。その場合、否定的な逸脱と肯定的な逸脱が区別できます。否定的な逸脱は不法行為、犯罪です。それに対して、肯定的に考えられる逸脱は、革新innovationです。こう考えると、いい意味での「変な考え」とは、既存の常識を逸脱する、革新的な思考であると分かります。
常に革新が起こると、社会秩序が不安定になります。革新はたまに生じる変化です。結論としては、思考は革新を可能にするという点で、既存の同調的な秩序からすると変なものであり得る、となります。近代社会では、私達の身の回りに、「ちょっと変」な逸脱がたくさんあり、そのいくつかから革新と進化が生じてくるのです。
また、別の観点で考えてみます。革新よりもっと異常で激しい逸脱は、狂気でしょう。これは明らかに常軌を逸した変な思考です。しかしそのような激しい変としての狂気は、学問の中で肯定的に語られることもあります。ドイツの哲学者のニーチェは、若い頃に書いた『悲劇の誕生』という本の中で、ギリシア神話における理性の神としてのアポロンと狂気の神としてのディオニュソスを対比させ、後者を狂気と陶酔の神として称揚しました。ディオニュソスのイメージは、1970年代のポストモダンの哲学で主導的な価値となりました。近代化は科学によって主導され、その価値は理性です。つまり、変ではないものです。それに対してポスとモダンの思想は、ディオニュソス的な狂気や非合理性に中心的な価値を見出しました。哲学に興味がある人は、こうしたトピックを取り上げて書けば、上出来の小論文になるでしょう。ディオニュソス的な狂気は、問題文の「身の回り」と「ちょっと変」という条件から外れるように思うかもしれませんが、私達の平穏な暮らしのすぐ底にこのような異様な世界が考えられると書けば大丈夫でしょう。
【解答例】